PUKUの生い立ち

私の父はギャンブルが好きで、家には全くお金を入れず、母が一人で働いて私を育ててくれました。

私は小さい頃から身体が弱くて、喘息の持病があったので、子供の頃は毎日母が私を背負って病院通い。夜になると発作が起きるので、仕事で疲れている母が、寝ずに看病をしてくれました。

母はすごく元気な人で、女性だけど負けん気の強い、曲がった事が嫌いな母でした。だから、お友だちもたくさんいて、いろんな人から頼りにされて、頭も良くて凛とした自慢の母でした。

その母が、私の13歳の誕生日の日に、急に倒れて救急車で運ばれました。頸椎ヘルニアで、激しい頭痛や手のしびれがあって、とても苦しい病気だそうです。

十数時間の大きな手術をしたのですが、当時はもともと成功率の低い手術で、成功しても後遺症が残ると言われていて、術後1年近く病院で寝たきりでした。

寝たきりと言っても、首を固定されて動かせないので、ずっと天井を見たままの状態です。かなり辛かったと思います。その後少し歩けるようになりましたが、亡くなるまで病院生活が続きました。

母が入院したので、単身赴任だった父がしぶしぶ家へ戻って来ました。だけど父は相変わらずギャンブルが好きで、お給料日には適当にラーメンなどを私に買い与え、残りは全部ギャンブルに消えていきました。その内家にも帰って来なくなり、私は中学校へ持っていくお弁当もなくて、お昼になると一人でお水を飲んですごしました。

日曜日になると、母の入院している病院へ行きます。
いつも母が自分のごはんを私に分けてくれました。見兼ねた同室の人が、パンやお見舞いで貰ったお菓子等をわけてくれたりもしました。

ひもじく、さみしく、みじめな中学時代をおくっていた私は、自分が自分の人生を生きていないような感覚でした。

早くこの悪夢から覚めたい・・・そう思って、月日が経つのを息をこらしてじっと待っていたように思います。

だけど、もっと苦しかったのは母だったでしょう。
寝たきりで、私に何もしてあげられないことが、どれだけもどかしかったかしれません。私を見る度に、涙を流して謝っていました。

悪夢はさらに続きます。

数ヶ月後、今度は父が脳こそくで倒れ、母と同じ病院へ入院しました。
脳こうそくの後遺症で、半身不随になり、痴呆が出始めました。病院から、「うちではみられない」と言われて、あちこちの病院を転々としました。

中学を卒業する頃、父の痴呆はかなり酷くなっていました。
父は家へ帰りたがり、勝手にタクシーに乗って家へ帰ってきます。だけど、痴呆が出ているので住所がわからなくて、何時間もタクシーでうろうろします。

中学を出た私はおそば屋さんで働きながら、定時制の高校へ通っていました。
だけど、いつも心が休まったことがありませんでした。働いている途中も、学校へ行っていても、父がいなくなったと病院から電話が入るのです。
そして、うろうろしながらタクシーで家へたどり着いた時、1万円以上のタクシー代が毎回飛んでいきました。
そしてまたタクシーで病院へ。

働いても、働いても、どんどんお金は消えていきます。

友達が可愛いお洋服を着ていても、私は新しい服を買う余裕がありません。着るものどころか、食べるものにも困るしまつ。毎日おそば屋さんで出してくれる、お昼のうどんだけが楽しみでした。

お友達に映画へ誘われても、遊園地へ誘われても、遊びになんて行けません。
休みの日は病院へ行って、両親の洗濯物を洗ったり、世話をして、平日は仕事と学校。町内の役員や地域の掃除も親の代わりに私がしました。

もう、身体も心もクタクタでした。
まだ10代の女の子なのに、服も靴もボロボロでした。

そんな私を見て、母が泣きます。

ごめんね、ごめんね・・・って泣きます。

泣かれても、私はまるで他人の事のような感覚でした。
うまく言えないけれど、心が現実の世界になかったのだと思います。
そこへ居たくなかったのです。
誰か別の人のことを、母が泣いているように感じました。

地獄のような日々の中、突然父が亡くなりました。
亡くなった事は悲しかったけど、心のどこかでホッとしていました。
父に対しては、もう何の悔いもありませんでした。
家へ帰って来ては、おしっこを漏らしたり、家にマッチで火を点けたりと目が離せない状態でした。本当に神経が休まったことがなかったのです。
親不孝な言い方かもしれないけれど、亡くなった時は、やっと地獄から解放された気持ちでした。

だけど、まだ地獄は続きました。

今度は母でした。
数年に渡る闘病生活に疲れきっていた母は、いつのまにか精神を病んでいました。
父が亡くなった事も何かの引き金になったのかもしれません。
どんな心の動きがあったのかは私にはわかりませんが、父が亡くなってから、母の身体はどんどん衰弱し、私が行くと、「死にたい、死にたい・・・」とばかり繰り返しました。

その頃、母の古くからの友人がよくお見舞いに来てくれるようになりました。
50代ぐらいのおじさんで、私の事も気にかけてくれ、家に食べ物を持ってきてくれたりしていました。
おじさんの励ましもあり、母は少しずつ元気を取り戻しました。元気になったら、おじさんと母と私の3人で、てっちりを食べに行こう!と、よく話していました。

ところが、その母の小さな幸せな時間はすぐに消えてしまいました。

おじさんの奥さんがくも膜下出血で倒れ、介護が必要になり、おじさんは母の所へは来られなくなったのです。
母はものすごくがっかりしたと思います。
何の変化も無い退屈な病院生活の中で、おじさんや私が来てくれる事だけが楽しみだったからです。

おじさんが来なくなってから、母はまた、「死にたい、死にたい・・・」と言うのが口癖になりました。

私は母の病気のことと、自殺したらどうしよう・・・という心配で、何をしていても気になって落ち着かない日をおくっていました。
その頃には、私もかなり精神を病んでいたのだと思います。
もう病的に、10分置きに病院へ電話をしては、母の安否を確かめずにはいられなくなっていました。

そんなある日、母の病院へ行くと、母は相変わらず「死にたい、死にたい・・・」と言いました。
もう、うんざりでした。
死にたいのはこっちの方だと思いました。
実際、その頃私は、リストカットを繰り返すようになっていました。
母の気持ちをやわらげてあげられる余裕が、もう私には残っていませんでした。

生活も楽ではありませんでした。
母の病院代、おむつ代、その他諸々で10代の私が働いたお金なんてすぐに消えていってしまいます。
何のおしゃれもできず、趣味も持てず、看病と仕事と学校で、もう疲れきっていました。

そんな時、母が入院している病院から電話がかかって来ました。
母が居なくなったというのです。
今日は気分がいいから少し外の風にあたりたいと言ったまま、戻って来ないと言うのです。
家に帰って来るかもしれないので、とりあえず家で待機していてほしいと言われました。病院の方で、警察にも届けてくれたようでした。

生きた心地のしない十数時間が経ちました。
朝になっても母の行方はわかりません。
私は、正式に警察へ捜索願いを出しに母の写真を持って行きました。
服装や特徴を告げ、写真を渡して手続きをすませ、家に戻ってしばらくすると、水上警察から電話がかかって来ました。

おそらく母と思われる遺体が、海で発見されたと言うのです。
警察へ行くと、暗い霊安室でその遺体は真っ裸で横たわっていました。

母でした。

家の近くの海で発見されたようです。
病院から一旦、家の方へ戻って来ていたのでしょう。
だけど家へは戻らず、何を思ったのか海へ飛び込んだみたいでした。
遺体の様子から、亡くなったのは昨晩の0時ぐらいだと言われました。

汚いヘドロの水を飲んで、お腹はカエルのように膨れていました。
溺れた時の状態で、両手をあげたまま硬直していました。
目からも、鼻からも、耳からも、赤黒い水がどんどん垂れていました。
拭いても拭いても垂れてきます。
皮膚も紫と緑が混じった、変な色になっていました。
自分の母親が、妖怪のように見えました。

遺体の前で何度も倒れそうになりました。
一人では立っていられない状態でした。

その後、遺体の解剖を待ち、お葬式を出しました。
兄弟もいないし、心細かったけれど、母のお葬式には100人を超す人が来てくれました。母の友人達でした。どの人も、母に大変お世話になったと泣いてくれました。

元気だった頃は、みんなの世話をするのが好きな立派な母でした。
だけど、ドライアイスと一緒に棺に横たわっている母は、私を置いて死んでいった憎らしい母です。

死ななくてはいけないほど苦しかったのだろうけど、何も言わずに残された私が、残りの人生、どれだけ重いものを背負っていくのか母は考えたのでしょうか。

暗い冬の海をみつめながら、母が最後に考えたのはどんな事だったのでしょう・・・。

病院へ来てくれなくなった、おじさんの事でしょうか?

それとも、少しは残していく私を不憫に思ってくれたのでしょうか?

もう母に聞くことはできません。

だから、私はずっと苦しいのです。

私は、母に愛されていたのかも、わかりません。

最後に私に会いたいとも思わなかったのでしょうか・・・。

ただ、私はポツンと残されたのです。

母の死から数日が経ち、私の前には母の亡霊が現れるようになりました。

警察の霊安室で見た、妖怪の姿をした母です。

いつも台所から、母が私を見ていました。
時には、私の横に座ったりもしました。

はじめは怖かったけど、そのうち母の亡霊を待つようになりました。
ずっとゆっくり眠ったことがなかったけど、母の亡霊が出てきて、私を見ていてくれると、不思議と安心して朝まで眠れるのです。

私はずっとそうしたかったのかもしれません。
母のそばで眠りたかったのです。
もう長い間、母の愛情を受けずに生きて来ました。
母の料理も食べていません。
いつもひとりぼっちで、不安と貧困に追いつめられながら生きて来ました。

だから私はゆっくり眠ってみたかったのです。

母が見ていてくれるそばで、ゆっくり眠りたかったのです
母の亡霊は、私が創り出した幻だったのかもしれません。
頭も少しどうにかなっていたように思います。

半年ぐらい過ぎた頃、亡霊は現れなくなりました。
私の生活も少し落ち着きをとり戻し、やっと自分の為の人生が始まったような気がしました。

だけど、私はやっぱりひとりぼっちです。
母が亡くなってから、私は「母に捨てられた子ども」のレッテルを貼られたままの人生です。
誰からどんなに愛されても、心が満たされることはありません。

いつもさみしい人になってしまいました。
母の亡霊が出て来た時のように、安心して眠れることもなくなりました。

母が私を置いて死んでしまった・・・。

そのことが、何年経っても傷となって残っています。
きっと、一生背負っていくのでしょう。

だけど、何も背負うものが無いよりはいいのかもしれません。
背負っているから、ほんの少し、孤独から救われているような気もします。

それは、私にも母が存在したという証しですから・・・。

 

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最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
暗い話でごめんなさい(^_^;)

今はちゃんと自分の人生を歩いています。
こうして、好きな絵を描いたり、好きな音楽を聴いたり、気の合うお友達と遊んだり、そんな自分の時間があることが、私のささやかな幸せです。

そして、そんな幸せを、ほんの少し皆さんにもおすそ分けしたくて、年賀状のデザインを提供しています。

メルヘン工房の絵を見てくださった方が、あたたかな優しい気持ちになりますように。

そして、世界中の人が、ひとり残らずみ~んな幸せになりますように・・・。

PUKU